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日本道・創始者からのご挨拶 4

執筆者の写真: Kazuya OkamotoKazuya Okamoto

更新日:2019年4月28日

【若者の決起・・・最近、お会いした゛青二才゛たちへ】


若(じゃく)が老(おい)にかわり・・・

小が大に勝ち・・・

青二才が中心にたつ・・・!

この言葉は、私を突き動かしました。

10年前・・・唐突に松岡修造の仲人なる「行徳鉄男」先生が、私にぐしゃぐしゃの手紙で、大阪のふぐ料理屋で、渡したメッセージです!


ベテランを名乗り、自負するおっさんたちへ!

貴方方は、よくやった!

私もがんばった・・・。

が、これからの日本を変えて支えていく人たちは、紛れも無い

「若輩・青二才・若者たち」です。


最近・・・会った・・・素晴らしき

「青二才」たちを紹介しましょう!


まずニックネーム`163キロ゛「県立広島大学の福原凛華さん」

ぶっとんでいた。


大谷を抜く怪物以上、ばけもんでした。

まずはいきなり、説明会の夜、私に唐突な鞄持ち志願メール・・・。

「徳島だけど、きてもいいよ。あした・・・」

「えっ?徳島?それはちよっと・・・」

「うん。無理しないでね」

(数分後)

「やります! すべての予定、開けました」

「えっ?すごいね。じゃあ、明日から徳島で、よろしくね」

そして彼女はとんでもない数日間をすごし

当社の社員となる予想外!?の結末。

途中にはロッカーの親父さんが友達申請がきたり、かあちゃんから

「代表に挨拶したい」と電話がはいったり・・・当社に久々に現れた

大谷級・・・です。


そして

「大分大学の濱屋樹くん」

こいつもすげぇ。

鞄持ち初日の1時間後に変身した。

突然

「すみません。受け身でした。気持ち切り替えます」

と、宣言してからの彼の行動はすさまじかった・・・。


「駒澤大学の中村ななこさん」

なんと同棲している・・・かいていいのかなあ?

が・・・ベンチャー経営者の彼は仕事に邁進・・・それを支えているのが静岡浜松の出身の彼女だった・・・。

日本酒、好きです・・・の、わりに、あまり呑めなかったのが、笑えたが、来期からは爆発するだろう・・・もちろん子供も授かってほしい。。。


そしていよいよ!

【日本道】

に新卒新人が入社しました!

はじめての

正社員!は

【重度障碍者】

14年間の引きこもり@アルカトラズ島からの・・・笑・・・脱出野郎です!!!

松井敏光といいます!

日大出身です!なんと法学部。


いまから、親父さんとお母様に挨拶に行きます。

東武東上線、成増駅の隣です。

なんて大切な新卒第一号が障碍者!?

と、思われていますよね?


彼はこの半年間で、変わりました。

私と正月も二人で過ごしました。

岩手被災地で・・・。

二人で徹夜で、日本道・・・の・・・こと、語ったり、原稿、かいてみたりしました。

そして、SNSで、「新卒募集」と掲載した途端に、数名の応募の中に彼がいました。

そしてその日のうちに彼がやってきました。

「入社したい」と・・・。


私も正直・・・悩みましたが・・・先日、内定書を渡しました。

そして5月から、二人三脚が始まります。

・岡本広報(外部スタッフ)

・宮村(契約スタッフ)

・浜岡顧問(関西支局)

と、5名で会議も開いて行きます。


祝いは、私たちには不釣り合いな・・・高級店に松井をつれて行きました。

ついてくれた女性・りあさん(宮城県出身)は、ステキで優しい女性でした。

松井にとてもとても優しく、ご自身の家族ににた境遇の方もいるらしく、美人のわりに腰の低い女性でした。

松井もとてもとてもよろこんで、一人・新人賞宣言してました。

笑。


その女性いわく、私の知覧研修の活動も動画でみてくれていたらしく・・・

「戦争に興味あります。原爆資料館もひめゆりの塔も行きました。知覧いきたいな・・・」と。


若者たちよ!

この女性のように・・・。

私がであった学生たちのように・・・

【行動】せよ!

今こそ、決起せよ!!


いつの時代も

・安寧

・安定

・安泰

など、興味も示さぬやつらから維新も革命も始まった!!!!!


「感即道」


松岡修造がWimbledonで、奮起した、言葉を最後に送りましょう!!!!!!!!!!


追伸

最後に・・・りあ!

に、ついつい、話して語ってしまった知覧特攻隊の中の有名人

「相花信夫さん」

についてお話しして締めます。


・・・・・


第七七振武隊として、昭和20年5月4日に出撃し、18歳で散華されました。


相花少尉は、東北は宮城県の出身です。

二人兄弟で、兄も陸軍軍人で、中支戦線に向かいました。


弟の信夫も陸軍に入隊し、特攻隊員として知覧基地に赴任した。


信夫がまだ6歳のときのことです。

父は、後妻をむかえました。


後妻は、二人の兄弟の継母となったのだけれど、生母が恋しい二人は、なかなか継母になつかなかった。

継母に対し、乱暴な口も聞いた。

さからいもした。

「おかあさん」となんて、一度も呼んだことなどなかった。


けれど継母は、二人の兄弟を実の子以上に可愛がり、献身的に愛情を注いで育ててくれた。

おそらく、なかなかなついてくれない兄弟に、人知れず涙を流す日もあったことでしょう。

けれど継母は、世間で言うような、継母による先妻の子イジメのようなことは一度もしなかったし、それ以上に兄弟二人に、ひたすら愛情を注いでくれた。

だから信夫も、飛行兵になるくらいだから、頭の良い、出来のいい子供に育ってくれた。


けれど、そんなやさしい継母に対し、兄も、弟の信夫も、なんだか照れくさくて、面と向かって「お母さん」とは一度も呼ぶことができなかった。

表面上は、逆らってばかりいた。


そして相花信夫は、特攻隊員となった。


いよいよ飛び立つことになったある日、相花信夫は、そんな継母に対して手紙を書きます。

手紙は、ノートの二ページに書いた。

一文字も崩さず、楷書で、丁寧に、ひともじひともじに、心を込めて、手紙を書いた。

その手紙が、自分の遺書になることを知って、涙をこらえながら、最後の言葉を書きとめます。


==========

「母を慕いて」


母上様御元気ですか

永い間本当に有難うございました


我六歳の時より育て下されし母

継母とは言へ世の此の種の母にある如き

不祥事は一度たりとてなく

慈しみ育て下されし母

有難い母 尊い母


俺は幸福だった

ついに最後迄「お母さん」と

呼ばざりし俺 幾度か思い切って呼ばんとしたが

何と意志薄弱な俺だったらう


母上お許し下さい

さぞ淋しかったでせう


今こそ大聲で呼ばして頂きます

お母さん お母さん お母さんと。


相花信夫

第七七振武隊

昭和二〇年五月四日出撃戦死

宮城県 一八歳

==========


12回もでてくる

「母」

「お母さん」

という言葉・・・。


私はいつも知覧研修の朝の戦績散歩で、読ませていただいています。


山近


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